たかが声、されど声。
本を読みながら声について調べたほどだ。
その過程で、「日本では女性の胸声は好まれなかった」ということを知り、だから私の声キモイって言われたのかと納得。
歌に限らず、何か夢中になれることがあって、希望があって、それがまったく予期せぬことで、最悪のタイミングで奪われたら人はどうなるだろうか。
病気や怪我なら、治療法があるのならば元の状態に戻せる場合がある。
でも成長も、老化も止めることはできない。
「声」はあくまでもこの事件のきっかけであり、真実にたどり着くための鍵ではない。でも結局のところ、犯人に狙われてしまったのも「声」のせいだ。
本シリーズは、日本での発行三作目となる。
下地として、エーレンデュルの過去や現在進行形の子供たちとの問題があり、事件を通して浮上してくることがある。
それが実際に事件を解くきっかけになるというわけではない。
謎を解く上で重要というわけではないが、物語を楽しむうえで欠かせない要素となっている。
国内作品でいうなら中山七里氏の犬養隼人シリーズがそれにあたる。犯人にたどり着いたとき、真相を知ったとき、犬養はいつも病気の娘の存在を否が応でも引き合いにだされ葛藤させられるのだ。
一方でエーレンデュルは、事件をきっかけに自身の弟のこと、娘や息子のことを思い出す。それは幕間的なものだが、物語全体の色を整えるためのフィルターも担っている。
エーレンデュルという男は万人に好かれるキャラクターではない。
一癖も二癖もある。今も世間一般的に使われているかわからないが「コミュ障」の色合いが濃い。彼が纏うのは孤独だ。
そんな男が事件を推理する。
人に感謝されるためか?
いや、本人は仕事だからと答えるだろう。
意味はない。
意味はないと見せかけて、それでいて情に厚い。
彼はいつでも、忘れ去られていく被害者の過去、事件の背景に寄り添っている。
何も語らない死者には寄り添えるが、生きている同僚や家族に寄り添えない、そんな不器用な男の物語でもある。