anonyme cahier

四方山事

「ミッドサマー」は日本的

 

ミッドサマー(吹替版)

ミッドサマー(吹替版)

  • フローレンス・ピュー
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 なぜだかバズったホラー作品、「ミッドサマー」。

 北欧のとある村の「夏至祭り」をレポートのために大学生グループが取材にいったところ……という作品である。

 どこがホラーかというと、その村の在り方や祭りの内容にある。

 海外での評価は調べていないのでわからないのだが、日本ではおおいに人気が出た作品である。

 これまでのホラーのヒット作といえば、連続殺人が起きる。霊現象多発。ドキュメンタリータッチで描かれるモキュメンタリー作品。

 そのどれにも当てはまらないのが「ミッドサマー」である。

 なぜ人気がでたのか?

 不気味で、どこかコミカルな部分もあるのだが、作中で描かれる村――共同体の在り方が、日本人の精神に通じるところがあったからではないだろうか。

 

 では、日本を舞台とした「ミッドサマー」は制作可能か?

 ――現代では難しいだろう。

 「ミッドサマー」の村は、ミステリ作品でいうところの「クローズ・ド・サークル」、陸の孤島――外部との交流を持たない土地ということになるが、今は山中でもスマホの電波が拾えるところがあったりするので難しいだろう。

 もしかしたら本当に、周りとの接触を断っているコミュニティはあるかもしれない。でも、接触を断っているので私たちはその存在を知ることもできない。

 しかし、村でなければ作ることができるかもしれない。

N号棟

N号棟

  • 萩原みのり
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 ネットフリックスで配信が始まった「N号棟」こそ、日本の「ミッドサマー」と言える。(アマプラでも見放題に登場)

 集合住宅というのは村そのものだと、この作品を観ていて思った。

 様々な決まりがあり、定期的に集会が行われたり、村的な人間関係があったり。

 同じ建物に住んでいる、周りの目を気にしなければならない――その気遣い具合は他の海外作品では見かけない。周りに気を遣うというのは日本人独自の性質なのかもしれない。

 引っ越しの挨拶などは日本独自ではないだろうか? 最近は個人情報を守るために行われなくなってきているようだが。

 

 私は、ストーリーはもちろん重視するが、画が綺麗かどうかを観ている。つまり、芸術的な部分だ。その点でいうと、この作品は芸術点が高い見せ方をしている。そこは気に入っているのだが、一番初めに登場する主題、「死恐怖症」――タナトフォビアについておざなりになってしまった点がもったいない。

 主人公はタナトフォビアを抱えている。そんな中、とある幽霊団地と関わることになり、どう変わっていくのかが描かれるべきなのだが、団地の異様さを前面に押し出していて、タナトフォビアの解決とかけ離れた展開になってしまっている。

 ただ、主人公も自身の病気の解決のために団地に行ったわけではないので、コトが起きた時点で、その問題は忘れていてもいいだろう。

 

 たぶん、描きたいことが多すぎて、うまくまとめられなかったのではないかと思う。

 

 生と死について語られるシーンがあるのだが、その内容は黒沢清監督作品の「回路(2001)」に通じるところがある。

 こちらもホラー作品で、それでいて当時としては斬新だ。

 突然、人が消失する。そんな中で浮かび上がる問い。

 電話、ネットで人は繋がることはできるが、それで本当に人と繋がれているのか。死んだら人と繋がれるのか。

 

 生きているから孤独なのか、死んだら孤独になるのか。

 死んだら孤独はなくなるのか――死後の世界で云々というのは宗教で語られることが多く、宗教もまた人との繋がりをもたらすものだ。

 

 死んだら今ここにある意識はどこに行くのか? 消えてしまうのか?

 この問いが、幽霊の存在証明に繋がるわけだが、それをスマートに描くというのは難しいし、哲学的で集客を見込めるかわからない。

 

 他にもいろいろな作品のリスペクトが見受けられたが、とりあえず二作品の紹介に留めておく。

 ――とりあえず、服はすごくこだわっている作品だ。

 

 実はEDでDUSTCELLさんの曲が使われるということで知った作品。

それぞれの好み

 友だちの配信にゲスト参加して、ランキングを答えるというコーナーがありまして。

 その中で、私は好きな映画を6作品ピックアップしたのですが、メインパーソナリティの1人である、Φ(ファイ)さんが、「そういえば、構成が凄いと思った作品がある」と紹介してくれました。

 

 

 ドラマにもなった作品なので、ご存じの方も多いかと思います。

 一応、シリーズものなのですが、ここまでのどんでん返しはこの1作目のみではないかなと。

 「探偵」と書かれているので、もちろんミステリです。短編連作で、次々と謎を解決していくわけですが、最後に驚きの真実が――

 という内容でして、立ち読みでネタバレを防止するためか、文庫本で発売されたとき、ビニルのカバーがかかっていたのを覚えています。

 私はドラマを見てないのでそちらはオススメすることはできないのですが、気になる方は読んでみてはいかがでしょうか。

 

 そして、私のほうは好きな映画、1位に選んだのはデヴィッド・フィンチャー監督の「セブン」です。

 

 フィンチャー監督は、とにかく映画のタイトルをシンプルにすることで有名で、その代表格とも呼べる作品ではないかと。

 ただ、古い作品ではあるので、知る人ぞ知る作品ではないでしょうか。

 こちらの作品は、「新世紀エヴァンゲリオン」や「シン・ゴジラ」で有名な庵野秀明監督が「好きな映画」として挙げていたのでも有名で、自身の作品でも使う「G線上のアリア」が使われています。

 ベテランのサマセット刑事がもうすぐ引退するというときに、”まともではない殺し”が発生する。時を同じくして配属された新人刑事ミルズ。彼が事件を担当するかどうかという最中、またしても妙な殺しが発生する。

 もしかすると連続殺人かもしれない。サマセットはミルズに事件から下りるよう勧めるが、やる気に満ちたミルズは言うことを聞かない。

 いわゆる凸凹コンビの二人で捜査することになるが、とんでもない悲劇が待ち受けていた。

 ミステリー作品かと言われればそうではないです。謎とかはほとんどなく、グロテスク表現はあるもののホラーとも言い切れない――そういった、人々が好みそうなジャンルで装飾を施した文学的な作品と言えなくもないです。

 ブラッド・ピットが演じるミルズもカッコいいのですが、モーガン・フリーマン演じるサマセットが良いことを言うんですよ。

 好きなシーンはミルズが本のタイトルをうまく読めなくてほぼほぼサマセットに訂正されている部分です。

 

 フィンチャー監督といえば、他に小説が原作の「ドラゴンタトゥーの女」もオススメです。(続編の「蜘蛛の巣を払う女」は、監督が違うのはもちろんですが、原作も1作目とは別の方が手掛けているためか、ちょっと1作目ほどのインパクトはなかったかなと)

 暦の上では夏至(ミッドサマー)は過ぎたのですが、梅雨の時期だというのに、まあ雨が降らない。なので、夏休みにでも観たり、読んだりしてはいかがでしょうか。

トリフ

 メモを取っていて、はたと気づいた(この「はた」って何なんだろう)

 私はずっと、「トリュフ」を「トリフ」と言ってきた。

 滅多に口に出すワードでもないし、チョコのトリュフは好きだが、語源となったキノコのほうは匂いが個人的に苦手である(松茸然り)

 それでも「トリフ」と誰かに言っていたような気がする。それで通じていたし、料理番組や紹介でも「トリュフ」と性格に発音しているのを聞いたことがないような。

 いや、小さい「ュ」聞き逃していただけかもしれない。

 でも実際に発音するとなると、言いにくい。「デュフフフ」は言いやすい。

 「トリフ」でも通じるのなら、「トリフ」でいいのではないか?

 だがしかし、最近のカタカナ表記は海外の発音に近いものに置き換えられてきている。

 クラスメイト、ではなく「クラスメート」。

 音楽教本のソルフィージュは「ソルフェージュ」になった。

 ……トリフと言ったら馬鹿にされるのだろうか。

 「上手く発音できないんですよ」で乗り切るか。

 はたまた「口にしてはいけない言葉」に設定しようか。

 

 これ絶対、クロスワードとかで「トリフ」って書いてしまいそう……

ザリガニの鳴き声を聞いたことがない

 

 鬱映画として有名な本作。

 私はあまり鬱にはならなかった。

 「人生は終わり方だろうか」って、ヨルシカの歌の歌詞にあったような気がするのだが、私もそう思うわけで。

 主人公セルマの人生の終わりはgoodなのか、badなのか、私には判断できない。

 ただ、生前悪い出来事ばかりではなかったはずだと、彼女の歴史を思い返す。

 

 

 今回、アマプラで見放題が始まった「ザリガニの鳴くところ」という映画を観て、私は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を思い出したのだ。

 ある資産家の青年が湿地で死んでいた。彼の死は事故か他殺か。

 他殺として、一人の女性の存在が真っ先に浮かんだ。

 ”湿地の娘”

 誰も彼女を本当の名前を口にしない。知らないからだ。

 みんな彼女を知っているのに、彼女のことを何も知らない。

 殺人容疑をかけられた彼女――カイアの裁判が始まり、私たちは彼女のすべてを知ることとなる。

 本作はミステリー作品だ。

 事件に至るまでの彼女の歴史から、実はあの人が殺したのではないか、いや事故ではないかととにかく推理させられた。

 そう、この作品に探偵はいない。探偵は読者だ。

 

 映画の終盤、おばあちゃんネタに弱い私は泣きそうになったのだが――

 ――涙の供給ストップ。

 どんでん返しが起こった。

 

 友人は「イヤミスだね!」と言っていた。

 イヤミスとは、湊かなえ原作の「告白」などで有名な「いやーなかんじがする」、「後味スッキリしない」系のミステリーのことである。

 そう、これはカイアの一生を描いただけの作品ではない。ミステリーなのだ。その点で言うと、事件に関する真実は映画を観ただけではわかりにくいところがある。

 ただ、これで良かったのかどうかという疑問だけが残される。

 悶々としたい人にオススメ。

 湿地の美しい風景を楽しむだけでもいいかも。

 

 ――で、どこが「ザリガニ」だったのかなと。

 ザリガニは一切出てこないです。(ザリガニ好きの方、ご注意ください)

 ただセリフとして「ザリガニの鳴くところ」というワードは出てきます。それがこの事件の核心なのかなとも思った。

 そしてもう一つ思ったこと。

 多分、ここでいうザリガニはアメリカザリガニだと思うのですが、

 

 鳴くんです?

 

 

「声」

 

 たかが声、されど声。

 本を読みながら声について調べたほどだ。

 その過程で、「日本では女性の胸声は好まれなかった」ということを知り、だから私の声キモイって言われたのかと納得。

 歌に限らず、何か夢中になれることがあって、希望があって、それがまったく予期せぬことで、最悪のタイミングで奪われたら人はどうなるだろうか。

 病気や怪我なら、治療法があるのならば元の状態に戻せる場合がある。

 でも成長も、老化も止めることはできない。

 「声」はあくまでもこの事件のきっかけであり、真実にたどり着くための鍵ではない。でも結局のところ、犯人に狙われてしまったのも「声」のせいだ。

 

 本シリーズは、日本での発行三作目となる。

 下地として、エーレンデュルの過去や現在進行形の子供たちとの問題があり、事件を通して浮上してくることがある。

 それが実際に事件を解くきっかけになるというわけではない。

 謎を解く上で重要というわけではないが、物語を楽しむうえで欠かせない要素となっている。

 国内作品でいうなら中山七里氏の犬養隼人シリーズがそれにあたる。犯人にたどり着いたとき、真相を知ったとき、犬養はいつも病気の娘の存在を否が応でも引き合いにだされ葛藤させられるのだ。

 一方でエーレンデュルは、事件をきっかけに自身の弟のこと、娘や息子のことを思い出す。それは幕間的なものだが、物語全体の色を整えるためのフィルターも担っている。

 エーレンデュルという男は万人に好かれるキャラクターではない。

 一癖も二癖もある。今も世間一般的に使われているかわからないが「コミュ障」の色合いが濃い。彼が纏うのは孤独だ。

 そんな男が事件を推理する。

 人に感謝されるためか?

 いや、本人は仕事だからと答えるだろう。

 意味はない。

 意味はないと見せかけて、それでいて情に厚い。

 彼はいつでも、忘れ去られていく被害者の過去、事件の背景に寄り添っている。

 何も語らない死者には寄り添えるが、生きている同僚や家族に寄り添えない、そんな不器用な男の物語でもある。