ブログを書くのが久しぶりだー。
裏では全然長文を書きまくっているのですが。
今年に入って、VTuberさんとのつながりも増えて、その中で配信の悩みとか、リスナーをどう向き合うべきかという話しをして、「花雨ンセリング」という素敵な言葉をいただきました。
「カウンセリング」とは、私的には「相手の話しをよく聞くこと、相手が話しやすい環境を作ること、発言の呼び水になるようにサポートすること」だと思っています。そしてアドバイスは「カウンセリング」とは別と考えてます。
また、アドバイスは結局のところ「自己満足」と捉えてるところもあります。
大事なのはアドラー心理学でいうところの「見守り」です。
相手を信じて、どこまで一人でやれるか黙って見守る。危ないという場面、危険が迫ったときは助ける。
なんでも手取り足取りやってあげることは「自分は相手より年上だから、スキルが高いから」という優越感にひたる行為になってしまうこともある。そして、サポートされた側は「一人でやる」という成長の機会が失われてしまう。
このバランスはとても絶妙で、助けないことで「なんでこの人は助けてくれないんだ」って思われることもあります。はたから「非情なやつだ」と私自身、「もっと優しくしたらどう?」と言われたことがあります。
言ってくる人はたいてい過保護である場合が多いのですが、相手が子供であれ、初心者であれ、自発的にやろうとしていること、「努力しようとしていること」に水をさしたくなくてあえて口を挟まず、黙って見守ることが多いです。
相手がこれであっているのか、正しいのか途中でつまったときは「あってる?」と聞いてきます。「聞く・問う」とは、信頼によって生じるものなので、そういった関係性が好ましいと私は思っています。
「いつまでもあると思うな親と金」と同じく、私も永遠ではないです。いつまでもサポートや手助けを続けられるわけではない。
だからこそ、自分で問題解決するための練習を「見守り」という形で実践しています。
また「あのときはこうやって乗り越えた」という成功体験も与えたい。
その成功体験に、私という存在が強く残ってはいけない。強く残ってしまえば、新たな問題に直面したとき、私という存在を使って解決しようとしてしまう可能性があるからです。
それは個々人の「自信」の違いでもあって、自信があれば、「今の自分なら前のように乗り越えらる」と立ち向かっていける。自信がなかったら「あのときは誰々さんがいてくれたから」となってしまう。
心理学者だったか、哲学者だったか、「神は乗り越えられる困難しかあたえない」と言っていたような気が……あと、「多くの試練が与えられるのは、乗り越えるための能力があるから」「怠惰な人間の前に試練は訪れない」などなど。
目の前に困難が立ちふさがったとして、全部乗り越えていかなければいけないというわけではありません。この場合、回避することも立ち向かうことも同等の勇気が必要となるので、「立ち向かうべきかどうかは自分で決めなさい。あなたの人生なのだから」と言ってます。
そういうことを言う立場にある時点で、普段どういう人からどういう相談を受けているんだって思われるかもしれませんが、これほぼ人生です。
要は問題をどうとらえてるか、の違いだけです。適当にとらえてる人にとって、人生は適当なので、こうした重い考えに囚われることもないです。
どうしても真面目で、真剣にとらえてしまって、泥沼にはまってしまう。そういう人に出会う機会が多かったり、相談される機会が多いというだけです。
そもそも適当な人は相談すらしてこないので。
そして、この権利「花雨さんに相談する」、相談できる立場を配信者側限定にしたくはないです。
心理学系の配信で、様々な体験など書き込んでいただき、それにお応えしたり、私から何かしらのアドバイスなども行っていますが、「長文すぎて書き込むのが申し訳ない」と優しいお言葉ありがとうございます。
Xのほうも文字制限があるのと、DMは配信者、リスナー、企業すべて制限してしています。なので、マシュマロで送っていただけると幸いです。
私も神ではないし、前述の通り、乗り越えていけるかどうかは自分次第なので、気軽なアウトプット感覚で利用いただければと思います。
余談にはなりますが、私は自衛のために配信者同士のつながりを制限しています。
同調圧力に加わる気もないし、参加している交流サーバーに配信規約を守らない人がいたり、出会い目的で配信者やってる人が一人いただけでも抜けます(ある意味でボーダーよね)。誘ってくれた方には申し訳ないですが、自分のチャンネルと活動が大事なので。また、クモの糸程度のつながりでも「炎上したやつの仲間!」だと燃やされるのが現代社会なので……怖いね。