anonyme cahier

四方山事

蜃気楼

 ――私の歌をみんなに聞いてもらいたい。

 ――自分の歌で誰かを励ましたい。

 

 去年参加したVシンガーオーディションのプロフィールでそんな言葉を見た。

 見て、私は自信があっていいなあと思った。

 別に自信なんてなかったかもしれない。本当に聞いてもらいたくて頑張った人もいるだろう。でも、私には書けない。

 誰かに聞いていただけるほど、聞く時間を割いてもらうほどの歌唱はできないと、今でも思っている。

 ただただ、自分が納得できる歌唱ができるように、それだけを目指している。

 ――それは「現実」だ。

 自分の歌がどの程度のものなのか、「現実」――客観的評価を求めて私はシンガーオーディションを受けた。

 「夢」を見なかった。

 「夢」、「希望」はなんだろう?

 ただ上手くなりたい。自己満足ではなく、客観的にも上手くなりたい。それだけだ。それだけだけれど、贅沢な望みだ。

 周りが、輝こう……輝いている中で「私の歌ってどんなものなんだろう」と考え続けた。今でもだ。

 ――私の歌を私は聞きたいか?

 ――自分の歌で、自分は励まされるか?

 これは自己満足の追求でしかないかもしれない。満足できるまで、私は何度も歌い直すだろう。

 何度も歌い直して、「及第点だろう」と思うものを、歌みたとして残している。歌みたも、誰かに聞いてもらいたいというより、ノイズ処理をした自分の声を聞いたり、そのときの実力を残す記録に近い。

 MIXで残るのは結局のところ、「声」だけだと一年経って気付いた。

 私には聴力がある。なので、MIXされる前の声の様子が大体聞き分けられるようだ。

 でもそこまで声を分析する人は珍しいのだ。普通はただ聞くだけだ。

 そういう意味で「声」しか残らない。それが聞いていて心地よいか、好きなタイプか、それだけだ。

 

 それが「もったいない」と言われた。

 

 正確には「MIXしないほうがいい」。生のほうが良い。音が外れていても良い、リズムが外れていても良い、じゃなきゃ機械的で聞いていて面白くない。

 MIXしてもらうこと、動画を残すこと。それが歌を続けていく上での目標や到達点の一つだと私自身思っていた。でもそうではなかった。

 生の歌を、ここまで好いてもらえることがあるだろうか?

 それに、通っているミュージックスクール、ボイストレーナーさんの教育方針にしたって、フルコーラスを完璧に歌いこなすことを目標としている。録音のため、歌い直せることを前提としたレッスンではない。また、歌い方を褒められることはあっても、声を褒められたことは一切ない。

 どんなに些細なことでも褒められることは嬉しい。でも、声に限っては複雑な気持ちになる。歌唱力が声に負けてしまっているのか、声が綺麗なだけで他にコメントいただける点はないのかと。そして、綺麗な声を出し続けなければならないのかと。

 なので、声ではなくテクニック重視でいられる今の環境は私にとって幸いだとも言える。

 

 先月はとにかく調子が悪かった。歌声が元気ではなかった。

 私と同じオーディションでデビューしたみんなが、一周年記念をお祝いしたり、動画を投稿したり。私もそんなイベントをやったほうがいいのかと悩んだ。

 焦った。調子が狂った。やる気が出ない。落ち込んだ。

 それが、「プロじゃないんだし」という一言で救われた。

 どこか吹っ切れた。

 本当は責任なんてないのだ。プロじゃない。素人なんだ。

 だったらプロと素人の境界線はなんだろうと考えるところだけれど、一旦はストップ。

 きっと私は「プロなんだから」って歌いはしない。

 今だって「習っているんだから」って歌ってはいない。

 そのとき歌おうとしている曲のことだけ考えている。

 

 

 「誰かのために」歌うなんて、私にとって今はまだ蜃気楼のようなものだ。